JOMASは原則として宣教者が行う海外の貧しい地域で生活する人々への援助活動を支援してきましたが、東日本大震災は未曽有の災害であったことから、特例として援助いたしました。

陸前高田市 燦々会 あすなろホーム 訪問記

2014年6月17日


 東日本大震災の罹災の地に、JOMASにご協力下さっている方々の意向を込めて、当時の代表者曽野綾子氏の強い要望がやっと実現して、社会福祉法人 燦々会のグループホーム「SUN」の多目的ホール完成のお知らせに、JOMASを代表してスタッフ5名と共に陸前高田市を訪れました。

 一ノ関までホームの車で出迎えて頂き、80歳のご高齢とは思えない燦々会創立者の理事長高井文子様と初対面、このホール建設の具体的なご紹介の労をおとり頂いた弁護士升味佐江子様も交えて、罹災前にご活躍なさったご夫妻の教員生活が「あすなろホーム」の障害者育成に繋がった事を伺いました。車窓から見える深い美しい山間を上り下りする立派な道作りに、日本の豊かさを感じる頃、車は町にさしかかり、津波がかけのぼってきた気仙川を下りながら当日の生死を分けた道選びのお話になりました。高井様がもし45号線をそのまま走っていたら渋滞に巻き込まれて今は生きて居なかったでしょう、何も通っていなかった左の細い道に舵を切ったおかげで今生きていますと。ホームに到着する前に[一本松]を訪れたいという希望をかなえて下さり記念加工された「一本松」を見に行きました。7万本植わっていた松が津波で山の麓まで持ち上げられ、引き潮でまた海まで引きずられたこと、大きな船がついこの間まで山の麓に押し上げられたままでしたと当時の凄まじいお話が続きました。一本松のすぐそばには空洞になったユースホステルの残骸がそのまま、他にも幾つか空洞になった大きな建物の残骸が数か所に見えました。現在、1つの山を削り、盛り土をする作業が続いていましたが、果たして専門家を交えた堅実な作業計画が実施されているのかと疑問に思いながら、原発の後始末同様、復興の課題はいたる所にあることを思わされた瞬間でした。

 住宅のあった地域は全部草に覆われ、区画が僅かに見える地域を通り過ぎて、震災前に19人の障害児をかかえて、市の援助で養老院の三角の残り地に収容施設を建てて始められた「あすなろホーム」にたどり着きました。三角の残り地と不満に思っていたけれど、この高台で子供達も命拾いしましたと高井さんが述懐、現在は40人の男女の障害者が作業施設でお菓子作り、模様タイル作り、くきわかめの処理作業をして、地域や復興に貢献しています。

 白衣に身を包んだ子供達が1人の指導者のもとシフォンケーキを懸命に作っていました。他にも柚子フロマージュ、パウンドケーキが商品として地域に卸され収益を得ているそうです。今年初めて2人の施設の子供が、町のお菓子屋さんに就職して社会入りを果たしていると伺いました。

 わかめの処理所では、開設当初より参加している子供さんが立派に作業内容を説明してくれました。センスのいる模様タイル作りにも指導者がいて、気の長い作業を頑張っていました。製品の需要先を探しておられます。   薄茶のおもてなしを受けた後、今日の目的のJOMASホールにご案内頂きました。16畳ぐらいの広さでしょうか?天井も高く、棟木の見える天井は気持ちのよいものでした。収容人数10室のテレビつき個室に、女子の障害者が入居し、生活を共にしながら人格形成に役だてようと企画された建物のホール建設費をJOMASがお手伝いしたわけです。日中は作業所に出かけて彼女たちが留守の間、地域の方々の集う場にも使用される予定だそうです。1人の専任の職員と、補助役にもう1人が寝食を共にしながら温かく見守られている彼女たちを代表する言葉をお伝えします。

 「両親と地域の皆さんのお陰で、10年間色んな仕事をすることができました。周りの皆さんは必要な人たちで、一緒に実習に行ったりいつも助けてくれました。10年間いろんなことがありました。家族には10年もすごいねと褒められました。応援してくれたことが有難いと思います。」

 ホームの庭先から海岸線に目を向けると、厚い霧に海が覆われていて夢の世界に居る感じになりました。海の幸、山の幸に恵まれたこの静かな自然に、突如訪れた魔の災害、高井様のご主人が1年前に他界された折、四国から盆栽を持って災害見舞に来られた方が写して下さったたった1枚の写真がご遺影に使われたそうです。何1つ残らずすべて海の藻屑となってしまったからです。

 高井様の夢は次から次へと膨らんでいるようです。ご挨拶もそこそこに、電車に間に合うために再びホームの車で一関まで送って頂き、一路車中の人となりました。沢山のことを見聞し、沢山のことを感じて心に納め、祈りながら、あの自然の中でわが故郷よ、と人々が集い生活する日が早く来ますようにと願いを込めて皆様にご報告をさせて頂きました。

JOMAS 代表   兄 部 純 子o.d.n.

高井あすなろホーム理事長とシスター兄部

奇跡の一本松

菓子製造科

JOMASホール

JOMASホール入り口

JOMASホールで記念写真

2014年7月29日、JOMASホールにて撮影された写真。

後日ご送付くださいました。

2014年8月2日。

社会福祉法人燦々会のグループホーム援助の経緯

社会福祉法人燦々会のグループホーム建設については、2012年4月の例会にて、これを支援していた弁護士升味佐江子氏から申請書が提出された。

JOMASは原則として宣教者が行う海外の貧しい地域で生活する人々への援助活動を支援してきたが、東日本大震災は未曽有の災害であり、JOMASとしても何か被災者支援のお手伝いをする必要があるということになり、前代表の曽野綾子氏も心にかけていたところ、前述のように燦々会からの建設援助申請が提出された。

燦々会の運営する「あすなろホーム」は、知的障害のある人たち40人が、クッキー、パン、藻塩や魚の乾燥フレーク、街路の整備に使用するタイル等を作っている通所の施設である。男女比はほぼ半々。地元の小学校の元教頭で養護学級や特別支援学級の担任をしていた高井文子氏が、成人した教え子たちが行くところがないまま、家の2階や離れに隠れるように住んでいることに心を痛めて、後輩の教員西條一恵氏と共に、週に一度集える場をと平成6年に利用者一人から始めた。その後、平成9年に市から補助金を受ける正規の作業所となり、さらに平成15年には社会福祉法人の法人格を取得して現在に至っている。

陸前高田市は、東日本大震災の折、津波の直後に上空から調査した自衛隊機が「全滅です」と叫んだほどの被害を受けた。市街地は跡形もなく、人口の1割を失い、7割が家を流されるなどであった。幸い「あすなろホーム」は施設自体は高台にあったため、 津波の被害は免れたが、通所者の中には亡くなった方も家族を亡くした方もいる。18名が家を失い、その障害のために避難所にも避難先の親戚の家にも居にくい状況であった。

そのため、高井さんたちは震災直後の4月から奔走して県に仮設住宅を建ててもらい、平成23年10月から7名のグループホームを運営し始めた。しかし仮設住宅は2年をめどに出なければならないため、2年以内に恒久的なグループホームを立てる必要に迫られた。事業用の土地については奇跡的に津波をかぶらなかった丘のてっぺんの農地を提供して下さる方があった。

グループホーム建設案は、市の復興計画、建設費の高騰、国の補助金使用の枠などがあり、計画が二転三転したが、最終的にあすなろホームで働く方が居住するグループホーム「SUN」1棟が建てられることになった。しかし、国の補助金では到底建築費には足りず、これまで積み立ててきた自己資金を充てても、当初の予算を大幅に超えたため、新聞でJOMASの活動を知った方の勧めで、申請が出されたものである。検討の結果、グループホームの居住者は昼間あすなろホームなどに働きに出かけるので、その間リビングを一般の方々にも貸し出して皆が集う場所として使うことにし、リビング、キッチン、それに付随するトイレ部分の建設費、893万8199円の建設費を2012年12月にJOMASが援助した。この部屋は「JOMASホール」と名付けられている。この新しいグループホーム「SUN」は2014年2月から利用開始となり、現在あすなろホームで働く女性6名と就業の訓練の結果あすなろホームから巣立って一般の企業に就職した女性2名が居住している。燦々会は長期に亘って彼らの生活を支援している。

2014年6月17日、JOMASの代表シスター兄部とスタッフ5名があすなろホームとグループホーム「SUN」の視察、見学のため、陸前高田市へ伺った。報告記をシスター兄部がまとめている。

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